【学生企画】普通の大学生がイスラム教の断食文化「ラマダン」をやってみた!
はじめに
皆さん、こんにちは!環境人間学部の3年生です。
突然ですが、皆さんは何かを我慢することは好きですか?僕は大好きです!サウナで汗を流した後に入る水風呂、きついアルバイトの終わりに食べるラーメン。我慢そのものは辛いのですが、それが終わってから自分に与えるご褒美、これが至福なのです。
そんな我慢大好きの僕が今回挑戦するのは、ラマダンです!
ラマダンってなあに?なんでラマダンを?
皆さんはラマダンという言葉を聞いたことがありますか?ラマダンとは、イスラム教の人々が3月下旬から4月下旬まで行う断食文化のことです。この期間中、人々は日の出から日の入りまでの飲食を避けなければなりません。この辛い1か月間が終わると、イード・アル=フィトルと呼ばれる祝祭が行われます!
僕がラマダンをやってみようと思った理由は2つあります。1つ目は我慢した後の解放感が大好きだから。2つ目は二年生の時の授業でイスラム教について学び、ラマダンと言う行事があるということを知り、一度機会があればやってみたいと思っていたからです。
さて、せっかくラマダンをするのですから、1か月間ただ茫然と断食をして過ごすのは余りに勿体ないです。しっかりと目的を持つようにしよう。と思いましたが、これと言った目的を設定することができませんでした。
「とにかくやってみれば、何か見えてくるものがあるのかもしれないな」
ふわっとした思いを胸に1か月のラマダン生活に挑みます!
ついに始まったラマダン(1~2週目)
さあ、ついに待ちに待ったラマダンが始まります!今までとは少し異なった生活形態になる分、初日の気づきは多いものです。が、初日は昼間に喉が渇くこと以外には特に思ったことはありませんでした。空腹も特に我慢しがたいものではなかったです。
しかし、4日目に風向きが変わります。前日の夜に十分な水分をとっていなかったため、朝起きた際に耐えがたい渇感に襲われます。今まで、歯磨きのときに口をゆすいだ水を飲みたくなったことなどありませんでしたが、このときばかりはその衝動に駆られます。
「待て、待つんだ。こんな汚い水を飲み込むわけにはいかないだろう」
そう自分に言い聞かせつつ、口から吐き出された水は排水溝の闇に消えていきました。この日は1日中大変でした。何しろずっと喉が渇いているのです。自転車に乗っていても喉が渇く。授業を受けていても喉が渇く。僕の中の細胞一つ一つがH2Oを渇望しているのです。
「ラマダンって結構しんどいんだな」
この日、初めてそう思いました。イスラム教の聖地、メッカがあるサウジアラビアの年平均気温は約27℃。ラマダンを行う3月下旬~4月下旬は日中の最高気温が30℃を超え、日差しも強い。なぜ彼らはそんなに過酷な状況下にも関わらず、ラマダンをしているのだろう。僕の中の疑問が膨らみます。
翌日、僕は友達と供に有馬温泉へと足を運びました。前日の教訓もあり、昨夜たらふく水を飲んだ僕の足取りは心なしか軽快でした。
さて、有馬温泉と言えば有名な金泉、銀泉のほかに、急な坂道に林立するお店での食べ歩きと言うものがあります。歩き回り見つけたのは、そう、唐揚げとビールのお店。アツアツの唐揚げを頬張りつつ飲むキンキンのビール。僕の頭の中はそのことでいっぱいになりました。1,000円札を握りしめ、店員さんに注文を言おうとしたその時、僕はあることを思い出しました。そう、僕はラマダン中だったのです。途端に今までに感じたことのない悲壮感が僕の体を突き抜けます。
「なんのために有馬温泉に来たんだ?歩き回ってへとへとになるためか?いや、違うおいしい飯をたらふく食べるためだろう」
僕の中の悪魔がささやきます。
「いや、ここで煩悩に負けるわけにはいかない」
僕はすんでのところで僕の中の煩悩を振り切ります。この時、イスラム教の人々の気持ちが少しばかり理解できたような気がしました。彼らは三大欲求の一つである食欲を禁じることによって何かを得ようとしているのです。その何かとは、何なのだろう。
「すいません。やっぱり大丈夫です」
店員さんにそう言い店を後にしました。
ラマダン13日目。朝布団から出ようとしたとき、僕は体の異変に気が付きます。なんだか体が重い…?とりあえず水を飲もうと蛇口をひねろうとした僕の脳裏にラマダンの4文字が浮かび上がります。そう、僕はラマダン中なのです。今の時間は9時。日の出からは既に3時間以上経過。水を飲むことはできません。日が沈む18時半までの、約9時間後に水を飲むより他はない。
重たい体を何とか動かしながら学校に向かいましたが、授業を一つ受けた後に体力の限界を感じ、帰宅を決意。学校を後にしました。
家に帰ってからはベッドで横になり、ひたすら日の入りを待ちます。あと3時間。あと1時間。あと15分。日の入り!僕はこの時を待ち望んでいました。カーテンを開けて空を眺めると、昼間はギラギラと地面を照り付けていた太陽ははるか西の彼方に沈み、雲一つない夕空は黄昏色に輝いています。キッチンの蛇口をひねり、コップにこれでもかと言わんばかりに水を注ぎます。表面張力ぎりぎりまで注いだ水を一気に口の中へと流し込みます。五臓六腑に染み渡るH2O。僕の体を構成する細胞の一つ一つが歓声をあげているような気がします。同時にすっと消える頭の痛みと体の重さ。
水の大切さを身に染みて感じた1日でした。
ついに我慢の限界か...
これまでの2週間、四苦八苦しながらも全力で取り組んできたラマダン。しかしながら僕の中の悪魔がささやきます。
「1日くらいラマダンをやめたって罰は当たらないさ」
確かにそうかもしれない!ダイエット中のチートデイ、受験勉強中の息抜きのゲーム。ラマダンにも息抜きがあってもいいじゃないか!僕はしれっと友達の後をつけ、しれっと食堂に忍び込みました。お盆を片手にさあ注文!
「日替わり定食、ご飯大でお願いします!」
背徳感に包まれつつ、心なしかいつもよりも大きな声でオーダー。目の前に差し出された日替わり定食のとんかつ、あふれんばかりの肉汁。よだれを飲み込み席に着く。さあ、とんかつ君よ、僕の口の中でとびっきりのハーモニーを奏でてくれ!
大きく口を開けた途端、僕はある違和感に気が付きました。「視線を感じる…」そう、僕の愚行の全てを友達が傍から見ていたのです。
「あれ?ラマダンしてたんじゃなかったん?」
問いかけられた僕の脳みそは高速で回転し、ある言い訳を導き出す。
「今日、チートデイやねん」
「せっかく2週間もラマダンしてたのに、勿体ないなあ。もうあと半分頑張れば終わりやのに…」
さらっと放たれたその一言はずしんと、確かな質量を持って僕の心に迫ってきました。僕はハッと我に返る。さっきまで皿の上で舞っていたとんかつ君は虚しく横たわり、千切りキャベツは冬の芝生の如く、心なしか色あせて見えます。
「僕は何をしているんだ」
しかし、すでに箸をつけてしまった以上、僕には目の前の定食をすべて平らげる義務があります。放してくれ、と言わんばかりに箸から逃げようとする一切れのとんかつを頬張ります。口に含んだとたんに聞こえる不協和音。針のように喉の奥に突き刺さる千切りキャベツ。
僕の我慢の限界はこの程度だったのか。
惰性で続ける3~4週
挑戦にはある程度の挫折は付き物です。そう割り切り、残りの2週間も変わらずラマダンに取り組みます。この2週間は割と平穏で、特に何もなくラマダンを行うことができました。しかし、友達がご飯を食べ、ジュースを飲む中、僕だけがそれをすることができないことは相変わらず辛かったです。早く終わってくれ…!
そして迎えた最終日。この日も僕は友達と一緒に食堂に来ていました。が、勿論何も注文せずに座り、ご飯を美味しそうに頬張る友達を眺めてはつばを飲み込みます。僕は孤独を感じました。ともにラマダンをする仲間がいればどれだけ楽なんだろう。そう考えてから思いました。もしかしたら、これがイスラム教の人々がラマダンに取り組む理由なのだろうか。
人は孤独に生きていくことはできません。必ず誰かと関わり合いながら生きています。何かに挑戦するときも、誰かと協力し合います。そして、その挑戦の過程で苦楽を共にした仲間はかけがえのない存在となり、より強固な絆で結ばれるのです。
イスラム教に置き換えて言えば、ラマダンという一つの大きな困難に対して、イスラム教徒全体で取り組むことによって団結心が生まれ、イスラム教徒であるというアイデンティティや誇りを持つことができるのではないでしょうか。
最後に
我慢が好きだから、なんとなく興味があったから取り組んだラマダンでしたが、最終的には僕なりの解釈でその本質へと迫ることができました。
インターネットでイスラム教徒の人々がラマダンをする理由と調べると、一言に「信仰心を深めるため」と出てきます。今の世の中は便利なものです。インターネットで調べるだけで色々なことを知ることができるのです。
けれど、それは本当に正しいことなのでしょうか。情報としてはあっているのですから、間違っているとは言えません。しかし、正しいと言い切ることもできません。知りたいことの本質を見抜くためにはただ調べて納得するのではなく、自分で一度やってみることが一番だと思います。
今回の僕の実体験に言わせれば、ラマダンはただ信仰心を深めるためだけのものではなく、イスラム教徒としての一体感やアイデンティティを深めるためのものでもあるのです。しかし、これはあくまで僕の主観であって、イスラム教の人々がラマダンを行う本当の答えではないのかもしれません。
皆さんもぜひラマダンをやってみて僕の出した回答の答え合わせをしてみてください!
最後までご覧いただきありがとうございました。